昭和56年7月24日 朝の御理解 【入力者:梶原佳行】

御理解第50節 「とかく、信心は地を肥やせ。常平生からの信心が肝要じゃ。地が肥えておれば、肥をせんでもひとりでに物ができるようなものぞ」



 合楽示現活動に参画する。まぁ合楽ではそんな風にいわれますですね。えー、合楽というのは、神様と私共の交流であり、拝み合いであり、ね、そういう神様と人間氏子が拝み合うていけれるような世界。合楽、示現。示現というのは、字引きを引きますと、神仏が不思議な働きを示し現すことだとあります。
 私共が現す、私共がとこういうのじゃなくて、示現というのは、神様仏様が、それも不思議な不思議な働きを現して下さることを示現というそうです。私は、この合楽示現活動に参画するということを神様にお知らせ頂いた時に、示現とはただこうおかげを示し現して行くことだとばっかり思うておったら、神様が不思議な働きを示し現してくださることなんだ。
 ね、そういう活動というのは、そういう働きに参画する。私共もかててもらう。そんな風に思うておりましたけれども、参画とは、ね、どうぞ私も仮名させて下さいという願いがなからなければ参画ということにはならない。合楽の信者一同がもうその参画しとると思う、ということじゃない。中でも、ね、そういう合楽示現活動に参画させて下さいという内容が参画という意味だそうです。これもその時、字引きで引いて分かったことです。
 ね、私は神様がいうなら示現したもう。不思議な不思議な働きを示し現してくださる。それが私は「ひとりでに物が出来るようなもの」だと思うです。ね、今日私は、御理解を頂こうと思うて、この教典を頂きましたら、あの御、御理解という、御理解というところが、白紙んところがありますね。その御という字を頂いたんです。それだけを。ね、御という字一字を。
 これは何時も頂きますように、ここでは全ての物を、ね、神様の御物として頂くように、事柄もまた、全てが神様が私共に、いわば私に下さる御事柄として合掌して受けるということ。ね、これで御の字をつけると。ね、自分の好きなことだけは有り難い。嫌なことは向こうに、とやるのじゃなくて、もう良いこと悪い事。ね、食べ物でいうならば、甘かろうが、辛かろうが、いやそれは苦かろうが、臭かろうが、頂こうという御の字を付けて御事柄として受けるということだと。
 そこを頂いてね、えー、それではあんまりこう御理解に、どこを芯にしてお話してよいやら分からんから、次ぎのこと、御理解を頂きましたら、今御理解50節を頂くのです。ね、いわゆる御理解50節には、ね、このございますように、とかく信心は地を肥やせとこう仰る。ね、地を肥やしておくから、いうならひとりでにものが出来るようにおかげが頂けれるんだということなんですから、皆さん、本当にね、いわゆる示現の働きという事。神様が不思議な不思議な働きを示し現して下さるほどしのおかげを、私は頂いて、ね、合楽教会でそれを、いうなら示現して行く。それが教団の上にも、そういうその生き方でなかにゃいけんという風に皆さんが分かってくれ…。
 昨日、月次祭にも申しましたように、百年祭百年祭というて百年祭を目指して、もう様々ないうならば活動が起こっております。ね、ところが悲しいまでに、それがおかげのいうならば、まぁ実際ということになってこない。現れない。現れないどころか、かえって寂しゅうなっておるというような、まぁ現状をです、思います時に教団全体に、ひとりでに物が出来るような働きがなくなって来ておるなと思わずにはおられません。
 昨日の、新聞に、論説に出ておりましたように、ね、無力感。無力を感ずるということ。何をしてもどうしても、一つもそれが成功しない。いよいよ自分のいうならば、無力ということを感ずる。その無力を感ずるもう一つ向こうに、なら神様のおかげを頂かなければ立ち行かんという悟りが開けて来たら素晴らしいですよ。
 ね、現在、その教団のあり方の中には、はー、色々なことをしてみるけども、一つもそれが当たらん。当たらんというか、そのいうならば信者が増えるようにという一つの運動でも、増えるどころか、かえって減っていっておる。そこに、もう悲観の感じですよね。悲しいまでの、いうなら無力感を感じる。ですから、ならいよいよ、これは自分達の人間、いわゆる合楽でいわれる、人力にみきりをつけて神力にすがれ、人力自ずから湧くという、自ずから湧いてくる人力、これこそがひとりでにものが出来ることのための信心です。
 ね、だから私はそれを昨日読んでもらって、聞かせて頂きながら、その無力感のもう一つ向こうにです、ね、とにかく神様のおかげを頂くより他にはないと悟らせて頂いたら、そんならどういうあり方になったら、一人でにものが出来るような、あれあれというほどしのいうならば御比礼が教団の上に輝くようになるのか。こういう素晴らしい内容を持った金光教が、ね、世界をそれこそ包みまわすだけの実力、実力というか、内容を持っておりながらそれを発揮できないということは残念だ。
 それはいうならば、人知人力を持って、人力を引っ張っておるようなことであるからではなかろうかと。そこで、人力を一遍捨てて、ね、もう神力一本に縋って、そこから湧いて来る自ずと湧いて来る人力。これがいうならひとりでに物が出来るようなもの。これ銘々の上にもね、そこのところのいうならば信心が出来てまいりますために、まぁ今日私が一番始めにこう開かせて頂いた、御の字である。
 心が肥えるということは、全ての、あれはいらん、これはいるというようなものじゃなくて、あれもこれも一切を合掌して受けるというような修行がです、ね、出来た時に、心は弥が上にも肥えてくるわけです。だからひとりでに物が出来るようなおかげにもなってくるんです。
 より好みをしちゃならん。ね、一切に御の字をつけて頂く。もうこれに極まったという感じがいたします。自分の心を豊かに肥やして行く、自分の信心を肥やして行く。ひとりでに物が出来るようなおかげを頂くことのために、どうでもこれに徹していかなければいけない。
 夕べ私はお月次祭を終わらせて頂く、ここから自分の部屋まで帰るのに、足が上がらんようにきつかったんです。月次祭たんべんに、私の、「アサノ」という熱心なご信心をなさい、「ヤマブ?」支部長の御長男です。それが大変この糖尿病の兼営といわれるくらいな偉い先生なんです。
 その先生が、月に一回か二回か来て下さいます。それで、えー、その看護婦は連れてみえませんから、それを戎浦さんが、ね、あぁいう大きな病院の看護婦長ですから、まぁ看護としては最高の方が、月次祭たんべんに私の尿を取って下さったり、血圧計ってくださったりして、色々と、まぁ私の体のことを、まぁ心配してくださるわけです。
 昨日も戎浦さん、すんでから見えましてから。今日、親先生偉い体がおきついですねち。もう私は今日は足の上がらんごつきつかったち。というて、もう休みながら、昨日色々血圧計ってもらったり何かしたんですけれども、ね、私はそういう中にあった、もう今日のお月次祭はやっと、いわば仕えたのですけれども、いうならばおかげを頂いて、今日はもうきついから御無礼しようといわずに、一、一修行させて頂こうという願いですから、結構の修行させて有り難いてこと。御の字で受けたわけです。
 ところが今朝の目覚しの清々しさ、げん、何かこう、何かモリモリしたから湧いて来るような力を感ずるんです、今朝は特に。いうならば健康がひとりでにこう、回復していきよるという感じですよ。あの薬を飲んだから、あの注射をしたからじゃない。夕べ確かにきつかった。ね、けれども、結構な修行させて頂いて有り難いという頂き方。御の字をつけていただい、きついことに対して御の字をつけて頂いたら、今朝はまた、まぁ何時もにも、ね、何時も朝は私は一番有り難いんですけれども、今日は特に心がこう弾むように体の上にも感じます。
 ね、問題はだから頂き方なんです。ね、それには、いわゆる御の字をつけて、一切を御の字を、きついことでもね、もう本当に今日はもうへとへとになるまでお使い回しを頂いて有り難いというね、御礼を申し上げるべきです。あー、きつかったで寝とったら、今朝は例えば起きれんごつきつかったかもしれません。ね、私はそれを思い、これを思います時にです、なるほどひとりでにおかげでね、ひとりでにものが出来るおかげを頂く時、ためにいよいよもって、全てのことに御事柄としての頂き方がいよいよ身に付いて、血に肉になるようなおかげを頂きたいと思います。どうぞ。